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ウィリー・バンクス ―手拍子の創始者


(国際陸上競技連盟IAAFの陸上コンテンツサイト 『SPIKES』2014.8.19掲載記事 より) 元三段跳び世界記録保持者のウィリー・バンクス氏が、今年の陸上ダイヤモンドリーグ・ストックホルム大会を前に、33年前、ストックホルムの大会で、あのゆったりとしたリズミカルな手拍子を編み出したのは酒に酔った観客のおかげであったことを話してくれました。

私は1981年に17.65mの全米記録を達成した後、ヨーロッパの大会に参加しようと当時のマネージャーにいくつかの大会への出場手続きをお願いしました。彼は「良い知らせと悪い知らせがある。ローザンヌの大会に出場できることになった。種目は走り幅跳びだ。」と言いました。私は「それが良い知らせだって?僕は三段跳びの選手なのに…」と返しました。 私はイライラしていましたが、大会の主催者のトップであるアンディ・ノーマン氏に会いに行き、こう尋ねました。「どうして三段跳びの種目がないのですか?」彼は言いました。「ではご説明しましょう。これはビジネスですから、観客席が埋められないような種目にお金はかけられないというわけです」 この出来事は、私にとってビジネスとしての陸上競技の最初の体験となり、そのおかげで単に選手として参加する事とスポーツビジネスとの違いを学ぶ事ができました。 なんにせよ、ローザンヌの大会の前に一度だけストックホルムの大会で三段跳びの種目に参加することができました。開会前の選手紹介の時にそこで一緒に競う選手に向かって、貴重な三段跳びの大会だからヨーロッパ記録や世界記録を塗り替えるような特別な事をやってのけようと言いました。皆はそう言った私のことを、ただあきれたように見返しました。 私の前に跳んだ8人のジャンプは全てファールで、私はますます落胆していきました。アンディ・ノーマン氏が三段跳びの種目を開催しない理由がわかった気がしました。正直言って、まったく退屈でした。 当時はまだ競技会にヘッドフォンを持ち込む選手が少なかった時代でしたが、私はソニーウォークマンのヘッドフォンを装着していました。Funkadelicというバンドによる「Not Just Knee Deep」という曲のギターソロを録音して、士気を高めるために聴いていました。 最初のジャンプのために助走路のスタート地点に立ち、いつものように3回手を叩いて、両拳を振る動作を行いました。ところが、私が手を叩くと、それを真似したスタンドの5人の酒に酔ったファンも3回手を叩きました。 私はムッとして後ろを振り返り、こう思いました。「なんて馬鹿げているんだ。ヨーロッパで最後の三段跳び大会なのに、なんてことだ」と。気を取り直して、再びいつもの3回の手拍子をすると、またあの酒に酔ったファンが3回手を叩いて返しました。怒りがパワーになったのか、この後、私は16.80mに届くような跳躍をすることができました。

観客の拍手に感謝するバンクス氏

この瞬間、私はスタンドにいる酒に酔ったファンに感謝しました。ヘッドフォンを付けたまま、ストレッチとダンスを始めました。そして、2回目の跳躍の前になるとその酒に酔ったファン達は、またもや手拍子をしてくれました。私は彼らに向かって手を振って応え、さらに数人が手拍子に加わりました。すると、2回目の跳躍記録は16.88mでした。私はスタート地点に戻りながら、これまでのどんな記録より最高に気持ちの良い記録だと感じていました。 3回目の跳躍に入るとき、スタジアムのブロック全体から、パン、パン、パンという手拍子が聞こえ、私はそれに合わせて拳を回しました。私は17mを跳び、観客に向かって投げキスをしました。 4回目の跳躍では、スタジアム全体の半数の人が手拍子をしていましたが、残りの半数の人はその手拍子の理由が分かっていませんでした。そこで私は思いました。「今日の僕はすごく良いジャンプができるかもしれない。」そこで、大会運営者に砂場の着地地点の外側にスウェーデン記録、ヨーロッパ記録、そして世界記録の位置を示す3つの旗を立ててもらうよう頼みました。 5回目の跳躍時には、スタジアム内のほぼ全員が立ち上がり、手拍子をしていました。私は助走をつけ、思い切り踏み切りました。ファウルしたなと自覚しながら着地した地点はちょうど世界記録の旗のすぐ手前でした。私はあたかも世界記録を跳んだかのような振る舞いをすると、判定員が(ファウルを示す)赤旗を上げるまで観客は狂喜乱舞していました。 私は四つん這いになって、ファウルしたのかどうか踏切板を確認しました。遠目からみてもわかる明らかなファウルだったので、私は笑い飛ばして、また戻ってヘッドフォンを付けました。 そんなとき、他の競技選手たちがウィニングランをしているのが目に入り、私はふと三段跳び選手はウィニングランをする機会がなかったことに気が付きました。そこで、まだ最後の跳躍が残っていたのですが、私もウィニングランをしてみたくなりました。私がスウェットスーツを着てトラックをジョギングすると、前を走る度に観客は立ち上がり、拍手を送ってくれました。 私の最後の跳躍の番になり、皆のリズミカルな手拍子が会場内に鳴り響きました。助走の後、着地したポイントはアメリカ記録のわずか0.01m手前の17.55mで、当時としては素晴らしい記録でした。

ウィリー・バンクスから始まった手拍子は、今では誰もがやるようになった

駆け寄ってきた観客たちの肩に担がれたまま私はインフィールドを横断し、インタビューを受けました。それから、大会運営者の座っていた席に戻り、こう聞きました。「さて、今のご感想は?」と。 それから1週間後、ローザンヌでの走り幅跳びの大会に向かいました。私はすばらしい走り幅跳び選手とはいえず、当時の私のベスト記録は7.75mくらいでした。大会が始まる時に誰かが私に向かって、「僕に何をしてほしい?」というような趣旨の問いを尋ねてきました。私が答える代わりに後ろを振り返り、手を上にあげるや否や、スタジアムの全員がリズミカルに手拍手を始めました。 アメリカと違い、ヨーロッパの人々は皆テレビで陸上競技を観戦するという事を私は忘れていました。その日私は8.11mを跳び、優勝しました。私にとって、そのリズミカルな手拍子は本当に物事をうまく運んでくれました。それは本当にやる気を起こしてくれるものでした。実際、人々が手拍子をしてくれると知っていれば、ウォームアップの必要すらありませんでした(というのは少々大げさですが)。 今日の多くの陸上イベントでも、いまだに選手が聴衆からのリズミカルな手拍子を好んでいるのは、本当に素晴らしいことです。あの時の手拍子がこれほどに広まり、今日まで親しまれ続けているなんて、当時私は考えてもみませんでしたから、本当に驚くばかりです。私は純粋にあの酒に酔ったファンの方々に、感謝しているのです。

1983年ヘルシンキでの世界陸上競技選手権大会のウィリー・バンクスの跳躍の様子

動画URL: https://www.youtube.com/watch?v=5INlR0nfuEk

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